観光スポット・施設

加賀神社の絵馬について

港町として栄え、多くの船持ちや船乗りがいた島根町加賀地区。ここにある加賀神社には、当時、船の安全を祈願して奉納された大きな絵馬が残されています。
絵馬は 6 枚あり、戦いの様子や武者の姿を描いた「武者絵馬」と、船を描いた「船絵馬」があります。

北前船の通り道の日本海にそった国々には、たくさんの港があり、絵馬はそんな港にある神社に数多く残されています。絵馬は普通小さいものですが、加賀神社にある絵馬は大きく、絵も丁寧に描かれています。それだけ値段も高かったことでしょう。このような絵馬を奉納した加賀の船乗りたちは、信仰も深く、お金持ちであっただろうと思われます。

「一の谷の戦い」


「一の谷の戦い」は文政 6 年 (西暦 1823 年) のものです。幅 166 センチほどで、絵の左端に「文政六年 癸末歳 仲冬吉辰 (みずのとひつじどし ちゅうとうきっしん)」と書いてあります。癸末は、文政 6 年の干支。仲冬は中冬で、旧暦の 11 月、吉辰は日と同じで、めでたい日、縁起の良い日という意味です。右下に「寿山画 (じゅざんえがく)」とあり、この絵を描いたのが寿山だというのです。
中ぼと下に「栄徳丸船中 (えいとくまるせんじゅう)」と書いてあるのが奉納した人です。船中は船の人みんなということで、つまり栄徳丸の乗組員全員でお金を出して奉納したということです。
絵に題はありませんが、800 年ほど前の寿永 3 年 (西暦 1184 年) 2 月にあった源氏と平家の「一の谷の戦い」であることはすぐにわかります。
右が源氏方の熊谷直実 (くまがいなおざね)、左が平家方の平敦盛 (たいらのあつもり) です。
平家方が陣どっていた一の谷は今の神戸市須磨区の西の方にあり、けわしい山と海に囲まれた難攻不落の陣でした。源氏方は西と東から攻めにかかり、平家方がそれに防いでいると、源氏方の一方の大将・源義経 (みなもとのよしつね) 達が急な坂を馬で走りおり、後ろから平家の陣に攻めこんだのです。平家方はあわてて船に乗り海に逃げました。この絵は、その時なぜか逃げおくれた敦盛を、直実が見つけ「返せ、返せ」戻ってきて戦え、と扇 (おうぎ) を招いて、呼び戻しているところです。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)

「関羽 (かんう)」


この絵には「天保 7 歳 申四月吉日」と書いてあります。題は書いてありませんが、おそらく中国の豪傑「関羽 (かんう)」でしょう。関羽は中国の「三国志」に出てきます。およそ 1800 年前に「蜀 (しょく)」という国の大将・劉備 (りゅうび) の家来でした。劉備は玄徳 (げんとく) と言った方がよくわかるかもしれません。奉納した人の名は馬の腹の下に「広運丸 (こううんまる) 忠八 (ちゅうはち) 勘兵エ (かんべえ)」と書いてあります。広運丸は松江藩の御手船 (おてせん)、忠八はその船頭、勘兵エは乗り組み総代でした。描いたのは「一の谷の戦い」と同じく寿山です。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)

「船絵馬 (ふなえま)」


船絵馬は横幅が 176 センチほどあり、帆を張った船が上に 2 隻、下に 3 隻描かれています。向こうの山からちょうど朝日が昇ろうとし、夜明けを待って、さぁ出港だ、といったところを描いたものでしょう。船の形、帆の布の数・反数や、乗組員の人数などが丁寧に描かれています。このような荷物を運ぶ船、廻船 (かいせん) といいますが、それについて文字で書かれたものは数多くあります。しかし、その船がどんな形なのか、帆は何枚の布が使ってあったのか、そんなことがわかる書きものは残されていません。この「船絵馬」は、そんな船の姿を知ることの出来る貴重な資料とも言えます。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)

「川中島の戦い」


「川中島の戦い」は永禄 4 年 (西暦 1561 年) 信濃国 (しなののくに) で行われました。絵は、馬に乗った越後の上杉謙信 (うえすぎけんしん) が、甲斐の武田信玄 (たけだしんげん) めがけて斬りつけようとし、信玄がその刀を扇で受け止めようとしているところです。出雲では、毛利と尼子の戦いが続いていた頃で、尼子軍が加賀の城を攻めたのは、この次の年、永禄 5 年のことでした。「奉献 (ほうけん) 御宝前 (ごほうぜん) 当邑船持中 (とういうふなもちじゅう)」と書いてあります。御宝前は神様の御前、当邑の邑は村ですから、「神様の前に、この村、つまり加賀村の船持ちみんなで、この絵馬をお供えします。」ということです。左側の額には「天保十一年子 (ねの) 八月十三日」と書いてあります。天保十一年 (西暦 1840 年)、子の年の 8 月 13 日はこの加賀神社の上葺遷宮 (うわぶきせんぐう) が行われた日です。お宮の屋根がえが終わって、仮りのお宿から神様がおもどりになられる日が一番の吉日だということで、その日を選んで奉納したというわけです。幅 260 センチほどの絵の右端に「庚子 (かのえね) 仲秋日 (ちゅうしゅうび) 製」、その左に「玉山人 (ぎょくさんじん)」と画家の名、その上にも字が二つありますが読めません、奉納した船持ちたちの名前は絵の右下と左下に 6 名ずつ書かれています。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)

「屋島の戦い (やしまのたたかい)」


幅が 3 メートル 40 センチと、加賀神社のある絵馬の中で一番大きいものが「屋島 (やしま) の戦い」です。屋島は香川県の高松市の東方にある島でその近くの海で戦が行われたため「屋島の戦い」といわれています。時は。元暦 2 年 (西暦 1185 年) の 2 月、平敦盛が熊谷直実に討たれた一の谷の戦いのあくる年です。絵馬には屋島の戦いの中でもとくに有名な、那須与一 (なすのよいち) の「扇の的」と、源義経 (みなもとのよしつね) の「弓流し」という 2 つの場面が描かれています。

絵馬右側が「扇の的」で、与一が放った矢が棒の先にゆわえられてあった日の丸の扇にあたり、海に落ちる様が描かれています。左側は「弓流し」です。平家の船に囲まれて、つかまりそうになった義経は、なんとか逃れはしましたが、持っていた弓を海に落としてしまいます。潮に乗って流れる弓を義経は拾おうとします。絵馬では弓を引き寄せようとする義経と、チャンスとばかり船の上から熊手を出して義経を捕まえようとする安芸太郎 (あきのたろう) 達。そして、義経に弓を捨て戻るように叫ぶ家来の武蔵坊・弁慶らが描かれています。なぜ、危ないまねをしてまで弓を拾おうとしたのかと訪ねられた義経はこう答えます。「弓が惜しいのではなく、こんな弱い弓を敵にとられ。これが大将の弓か、と笑われるのが悔しかったからだ。」義経は身は軽かったのですが、力は強くなかったようです。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)

 

「北条氏難波戦記 (ほうじょうしなにわせんき)」







「北条氏難波戦記」も幅約 3 メートルと巨大な絵馬です。この絵馬には数えきれないほどの武士が細かく描かれています。そのうち良く知られた武士には名札が張ってあります。一番右の方には、白い幕を張りめぐらした中に、大将が家来に囲まれています。名札には「北条相模守 (ほうじょうさがみのかみ) 御陣」とあります。左の上の方には石垣に囲まれた城があります。中にたった 4 人に付き添われた男女が描かれています。名札には「豊臣大納言秀頼 (とよとみだいなごんひでより)」「淀町御前 (よどまちごぜん)」とあります。太閤秀吉の子と、その母の淀君 (よどぎみ) です。この絵馬に描かれた戦は、元和元年 (西暦 1615 年) 5 月はじめの「大阪夏の陣」の戦いの様子だと思われます。

(島根町誌 (昭和 62 年 : 島根町教育委員会発行) より抜粋)