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加賀の旧潜戸

新潜戸が神の潜戸であるのに対し、旧潜戸は仏の潜戸と言うことが出来ます。
言い方も今日では旧潜戸 (きゅうくけど) と言っていますが、昔は古潜戸 (ふるくけど〜ふうくけど) と言っていました。

旧潜戸 賽の磧

年端もゆかぬのに生命絶えた幼子の魂の集る場所といわれている賽の磧、旧潜戸です。
十にもみたない幼子が、西院 (さい) の河原に集り、父恋し、母恋し、恋しと泣きながら河原の石を集めては塔を積みあげると伝えられ 「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため」と一心不乱に石を積んでいると、どこからか鬼どもが現われ、折角積んだ塔を片っ端から崩していく。するとそこへお地蔵さんが現われて鬼どもを追い払い、幼い亡者を助けて下さると云います。

賓の磧についての伝説・伝承は数多くあります。



子供の霊の足跡

朝日の昇らない内に、賽の磧に行ってみると、浜には夜の間に来て、石を積んだといわれる子供の霊の足跡があります。しかも片足のみ点々と土のやわらかい所についているのが見え、朝日が昇るといつしか消えていると言います。

石塔をくずした祟り

昔、加賀港に風待ちに入港した船乗りの一人が夜酒を呑んでいて「石の塔は、時化で全部崩れても、一晩中かかって泣きながら積み直す。」という話を聞き、そんな馬鹿なことは絶対にないと言って伝馬船をこいで旧潜戸に行き、船の擢 (ろ) で石塔をすべて崩してしまいました。
その晩、男が宿で寝ていると、わいわい騒がしい声がして一晩中眠れず、夜の明けるのを待って、旧潜戸に行ってみたら、石塔はみんな元のように、ちゃんと積んであったそうです。
やがて男の乗った船は、加賀の港を出るとすぐ大時化に遭い、船は壊れましたが生命だけは助かりました。
船乗りは、石の塔を崩したことを大変後悔し、国に帰り四国からお地蔵様を送ってきたとあり、そのお地蔵様は賽の磧の一番奥に安置されていると伝承されています。

地蔵札

幼子を亡くした母親が、どうしても吾子 (わがこ) のことが忘れられず和尚さんに相談に行き、お地蔵様のお姿の判木を借り千枚の紙にお姿を刷り写し、「吾子のいます場所を教えて下さい。」と海に流しました。
翌日、旧潜戸にお参りすると、波打際に沢山 のお札が打ち寄せられていました。
母親は、やはり此処にきていたのかと、涙ながらにお地蔵様にご加護をお願いしたと伝承され判木は、現在も町内の応海寺に残こされています。

何年か前にも東京から、子供さんを亡くしたご夫婦が来られ、夢枕に「私は加賀のくけどにいます。お参りにきて下さい」と 知らせたので、そのくけどは何処にあるかと捜しまわられたそうです。
やっと分かり、愛児の大切にしていた玩具をお地蔵様にお供えしご供養のお経をあげて帰られました。

旧潜戸の賽の磧には今もそういった方がお供えされた学用品や玩具、お人形さんなどが納められています。




積み上げられた無数の石塔が並ぶ賽の磧
お地蔵さんの周りには亡くなった
子供のためにお菓子やおもちゃが供えられています。


遊覧船発着場から賽の磧へ続くトンネル加賀の潜戸へは 観光遊覧船